団体旅行・教育旅行向け 沖縄南部 平和学習 〜for Peace of the World〜 |
平和学習は基本的に団体のみの受入れになります。個人観光旅行での入壕、受入れは出来ませんのでご了承ください。
ご予約は、1〜2年前から承っております。
当団体で管理してるガマで同時間帯に最大320名/8クラスが可能。ご予約も一括可です。
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クラシンウジョウのある「八重瀬町具志頭区」と協定を結び、当団体のみ入壕管理を行っています |
ヌヌマチガマ(八重瀬町戦争遺構公園)の指定管理を 受託し、当団体のみ入壕管理を行っています |
白梅学徒隊などの戦争経験者の手配も可能です。 | |
白梅学徒隊の足跡をたどる 平和学習コース 詳細はこちら |
平和の光を灯そう エコキャンドル作り体験 詳細はこちら |
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クラシンウジョウ壕平和学習体験 |
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クラシンウジョウ壕は、自然洞穴を利用して構築された日本軍陣地壕です。米軍上陸に備えて配備されました。 全長約150m、壕内にはカマド跡がある炊事場、坑木跡が残る坑道、壁にはロウソク台などが残っています。 この壕の南東側に隣接する岩場には、コンクリート製の銃眼が設置され、鉄の骨組みが現在も残っています。 銃眼からは南部海岸一帯を見渡すこともできます。 クラシンウジョウ入壕を通して、当時の状況を肌で感じてもらい、平和について考えてもらいたいと願っています。 <入壕について>
<各地から八重瀬町内までの所要時間(目安)>
※クラシンウジョウガマ⇔ヌヌマチガマ は約5分です。 ※渋滞等によりお時間に誤差がある場合がありますので、目安としてください |
ヌヌマチガマ平和学習体験 |
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沖縄戦当時、病院として使用された洞窟(ガマ)に入 り、平和について学ぶ貴重な体験です 。 沖縄戦中は、「第24師団第一野戦病院新城分院」と呼ばれ、米軍との戦 闘で負傷した日本兵を治療する病院 として使用された自然洞窟。全長500mある洞窟で、コンクリートの手術台があった手術室や病室があったほか、 かまど跡が現存しています。 西側出入口を「ヌヌマチガマ」東側出入り口は「ガラビガマ」と呼ばれている。 (「ガラビガマ」は立ち入り禁止) 「白梅学徒隊」と呼ばれる沖縄県立第二高等女学校の当時16歳の学徒5名が、軍 医・衛生兵・看護婦・地元青年 女子防衛隊と共に負傷兵の看護にあたりました。 <入壕について>
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白梅学徒隊の足跡を辿る 平和学習コース |
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第一野戦病院壕の跡地前にて、沖縄戦と学徒動員されていた「白梅学徒隊」について解説。 解説後はバスに乗り、糸満市真栄里ある「白梅之塔」に移動。多くの「白梅学徒隊」が 戦死された地で平和講話を聴き、黙祷を捧げます。 白梅学徒隊とは・・・ <概要について>
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平和講話 |
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白梅学徒隊や沖縄戦など、ご希望のテーマに沿って講師を手配します。 ホテルへの出張講話も可能です。 <概要について>
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平和の光を灯そう エコキャンドル作り体験 |
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沖縄戦で亡くなった全ての方の魂を弔い、追悼の想いと平和への願いをこめて キャンドルを作る体験です。 <概要について>
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【沖縄戦の概要】 1941年12月8日、ハワイ・オワフ島にある「真珠湾」を攻撃して、太平洋戦争は始まった。 当初優勢だった日本軍も半年後には劣勢となり、グアムやサイパンといった太平洋の島々は米軍 に占領された。 日本軍は、本土決戦の準備時間を稼ぐ為に、沖縄を「捨て石」として作戦を決行する。 米軍は1945年3月26日に慶良間(けらま)諸島へ上陸し、同年4月1日、沖縄本島読谷村 渡具知(とぐち)海岸から上陸した。 「鉄の暴風」と呼ばれるほどの銃弾が飛び交い、住民の多くを巻き込みながら日本兵、米兵も多数 戦死する泥沼の戦いとなる。 5月22日、首里戦線の崩壊を目前にした日本軍は、残存兵力約3万をもって島尻(本島南部)への 撤退を決めた。 首里周辺の一般住民には4月22日に知念半島への撤退が命ぜられていたが、連絡の不徹底と 戦場の心理から、多くは部隊の跡を追って推定10万人以上の避難民が喜屋武(きゃん)半島に 殺到した。 半島の地下洞窟には軍民が混住し、錯乱状態の中で「壕からの追い出し」「食料強奪」「集団虐殺」 など日本軍の暴虐行為が多発した。 日本軍は必死の抵抗を試みるも、米軍との物量の差は明白であり、6月23日には第32軍牛島満 司令官と長勇参謀長が糸満市摩文仁で自決し、日本軍の組織的な戦闘は終了した。 米軍は7月2日に戦闘終了を宣言。9月7日には日本軍が降伏文書に署名することで、沖縄戦は 公式に終了した。 |
【白梅学徒隊とは】 白梅学徒隊とは、沖縄県立第二高等女学校の学徒隊の通称。 白梅が校歌に歌われ、校章のデザインもなっており、同窓会誌の名称でもあった。 それに由来して戦後は「白梅学徒隊」と呼ばれるようになる。 1945年3月6日から23日までの18日間、東風平国民学校で看護教育を受け、米軍の艦砲 射撃が激化した 翌日の24日に第24師団第一野戦病院壕(通称・山第一野戦病院)に補助看護婦として 56名が配置された。 途中体調不良や家庭の事情により10名が除隊。残った46名の学徒達は、同年6月4日までの 73日間、昼夜を問わず続々と運び込まれる傷病兵の看護に働き続けた。 戦況の悪化により、同年6月4日に野戦病院長より白梅学徒隊に解散命令が下される。 陸・海・空から攻撃される戦場を逃げまどい、先に除隊した白梅学徒も含め22名が帰らぬ人と なった。 白梅之塔には22名の戦没学徒と、戦争が原因で亡くなった教職員・在校生・先輩を含め 149名が 合祀されており、毎年6月23日「慰霊の日」には同窓会主催の慰霊祭が行なわれて いる。 |